復興応援バスツアー

陸前高田ベルコン見学ツアー~2015年9/5開催

9/5の「陸前高田ベルコンツアー」報告です。

県外参加者9名様を含む31名の方に参加していただきました。

このツアー開催のきっかけになったのはこちら

4/11に開催された「復興ドボクツアー」

http://ameblo.jp/novia-jyosi100/entry-12014304046.html

県外に住む「重機・工事現場・廃道」のマニアの方々のツアーです。

これまで 

  
 被災地へ人は呼びたい
   ↓
 でもいつまでも、ボランティアツアーでは人は来てくれない。

   ↓

 久慈には「あまちゃん」ファンが毎年通ってくれる

   ↓
  今の陸前高田はなんだ? 何がウリなんだ_?

 
 
そこで経験したマニアと呼ばれる方々のツアー

ほんとにマニアックなツアーではあったけれど

「そうか、このテがあったか!」と

私にこれまでの観光のあり方を大きく180度転換させてくれました。

さて、ツアーの概要については最初にこのツアーに申し込みしてくださったAさんが

詳細にブログに書いてくださいました。

http://blog.goo.ne.jp/lotus045/e/cdcaa8029a595d3021fab531a258695f

 

 

実は開催数日前に

今回お世話になった陸前高田まるごと協議会さんから

「定期点検の日が実は急きょこの日になってベルコン動かないんです」との連絡が入りました。

「ええーー!ベルコン動く最後の土日ということでこの日にしたのに」と思いながら

バスのなかでその旨、お客様に謝罪をしてきたのですが

キセキはおこる・・・。

なんと、「点検が午前中で終わったので」ということで

私たちが三鉄南リアス線をのり継いで陸前高田へ入った昼から

工事を再開させてくれたのでした。

やった!

 

現地でガイドのカワハラさんと合流し、広田半島へ。

カワハラさん、真鍋かおり似のスレンダー美人の方ですが

被災者で、避難所暮らしも経験されています。

そのカワハラさんの案内で、広田半島のとある民家で昼食。

震災の日、広田半島へ渡る道路が寸断され、「陸の孤島」といわれた広田地区。

しかし、ラジオは聞こえていたといい、「生きてるぞ~」と皆で話したとか。

また、浜が忙しくなると買い物にも行けなくなるので

「ちょうど買いだめをする時期だった」とのことで、

「どの家にも比較的食料があった。不幸中の幸いだった」といいます。

気仙大工の技がつまったこのお宅でそんな話を聞きつつ

おばあちゃん、お母さんが準備してくれたお昼をご馳走になります。

そして記念撮影

そして一行は陸前高田市内へ戻り

この巨大工事の司令塔である現場事務所へ。

今回のツアーでどうしても見てほしかったのが「震災前の陸前高田の映像」です。

震災後にはじめてこの街を訪れた方々は、

「最初から巨大な造成地がたつような空地だったのでは」と思いがち。

でもここに駅があり、学校があり、商店があり、

人々はあの瞬間まで普通に暮らしていたんだ・・ということを見てほしかったのです。

そこで、現地ガイドの方にお願いして映像を集めて座学をしていただきました。

 

座学後、工事事務所のま向かい、ベルトコンベアーの出発点へ。

すぐ裏の120Mあった山を45Mまで切り崩し、破砕し、

土砂を全長3キロに渡るベルコンが市街地へ運びます。

 

3キロ先には100台近くの重機、

こちらは米沢商会さんの事務所、

この屋上で米沢社長はたった一人、救助を待ちました。

その米沢商会さんのビルの裏手には新たな市の中心部を建設中。

工事現場にも特別に入れていただきました。

記念撮影したこの地にはショッピングセンターがたつ予定だそうで

工事は2016年から始まります。

最後に一行は、タピック45へ

このいちばんてっぺんでは

3人の方が救助を待ちながら一夜あかしました。
どんな想いでその長い長い夜を過ごしたのか・・・・

 

こちらは今回のツアー参加者で最年長のおばあちゃん。

2012年に行った第1回目の復興応援バスツアーにも参加していただきました。
お元気でこうしてまたお会いできたことが嬉しかったです。

 

今回のツアーに参加してくださった方々は

・岩手が好きになった方

・岩手内陸部へ住む方

・重機マニアの方々

・自らも被災され、仮設へ住む方

といらっしゃいます。

実は、前回、訪問したとき、工事現場の方々は

「本当は現地の方にも見ていただいて

将来ここがどんな街になる予定なのか見てほしい」といってました。

ご本人に感想を聞くことは出来ませんでしたが、そういう意味では

少しでもお役にたてたかと思っています。

 

そして重機好きの方々も100年に一度の大工事の様子をカメラに収めつつ

「震災前は陸前高田という名前すら知らなかった。

けれどこの街の行く末をまた見届けたい」と言ってくださいました。

来年あたりからは少しずつ、宅地も分譲予定とか

次回はまた違う景色の陸前高田を見るツアーを開催したいと思います。

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第3セクターなめんなよ!第3弾復興応援バスツアー~2014年4/20開催~

※この時の出会いがさらにこの年に開催した「あまちゃんサミット」にもつながった思い出深いツアーです。

 

震災以来、続けている復興応援バスツアーも3回目。

はじめて県北の久慈を目指します。

4/20でまさかの「雪いっぱーい」の平庭高原を抜け、

 

着た~!!久慈駅
でたー!観光協会!!

いまや「あまちゃん」の聖地。テンションあがるねーー!

 

 

 

のびあの復興応援バスツアーは

必ず現地の方の体験談をいれることに拘っています。

第1回目 が、宝来館の岩崎昭子女将
第2回目 がさいとう製菓の元専務、津波伝承館の齊藤賢治さん

そして今回は、
三鉄の久慈駅長 橋上(はしかみ)和司さん

 

このポスターのなかのほぼ中央
この方です!

「あまちゃん」の大吉駅長のモデルになった・・・というと

ご本人は全力で否定されますが、やっぱりモデルになってますよね。

 

 

まずは三鉄の北リアス線運行部へ

 

「司令部」を見せていただきました。
現在の運行状況の他、風、雨量など外部環境の測定機械もあります。

 

 

その後、こちらの新型お座敷列車に案内され、
橋上駅長の体験談です。

 

 

まず語っていただくのは、4年前の3.11のこと。

この日、駅長はお休みだったそうですが、揺れとともにすぐに駅に駆けつけ、
駅にいた15名と高台に避難したそうです。

 

実際に被害の全容が明らかになったのは2日後。

いちばん被害の大きかった田野畑~島越駅間
 

高架橋が落ちた

 

 

「あまちゃん」で大吉さんとユイちゃんが見たのも
まさにこの光景という設定なんですね。

島越駅周辺の120軒あったお宅は
2軒を残して流失しました。

 

「三鉄の線路があったから助かった人もいるけど
線路が家を巻き込んで流れてしまった家もある」

また、
「ガレキ」という言葉を使っていたら
「俺らが稼いで建てた家だ、財産だべ!」と
漁師さんに怒られらという話もしていらっしゃいました。

そして

震災から2日後に
三鉄の望月社長は
「三鉄を走らせる」と決断します。

これを聞いた駅長
思わず「馬鹿か!」と思ったそうです。

余震が続くなか、脱線したらどうするんだ!と。

結果、

余震があって仮に脱線しても
列車が転覆しない、乗客もケガしない速度として
時速25キロ、
自転車なみの速度で走ったのが3/16
震災からわずか5日後。久慈~陸中野田駅間でした。

 

「でも結果的には走らせてよかったです。
生活用品なくて買いに行きたい人がいたし
安否を確認したい人がいた。
ストーブでも自転車でも毛布でもオムツでも
なんでも乗せて走った」

 

「野田も島越も大変だったが田老もひどかった。
田老出身者が駅について、変わり果てた故郷を見て
泣く光景を何度も見た」

 

その後、話は「あまちゃん」になり、
「撮影クルーと一番長く一緒にいたのは私です!!」

 

実は三鉄開業した1984年4月1日
久慈発宮古行きの
一番列車の車掌だったのが橋上さんだったそうで、

このあたりの設定はそのままドラマで使われたんですね。

何度も取材にきた怪しい男3人組が
NHKのスタッフで、朝の連続ドラマになるとわかったのは
半年後。

 

大吉さんがのセリフ
「第3セクターなめんなよ!!」
は橋上駅長が実際に
発した言葉なんだそうです。

※この時、駅長が手に持っている写真は

3.11のロケに向かう大吉駅長他、「あまちゃん」撮影スタッフの写真です。

 

 

3.11のシーンをロケする際、
たくさんの犠牲者がでた地域(島越駅周辺)でロケをしていいのか?
橋上駅長とNHKのスタッフは
1軒1軒お宅を回って説明に歩いたそうです。

その際、この地域のお坊さんに
「仏さんにとってつらいのは忘れさられること。
後世に残るドラマにしてください」と言われ、
出来たのが「あまちゃん」

 

この話はどうしてもたくさんの方に聞いてほしくて

8/30に開催した「あまちゃんサミット」でもパネルディスカッションで駅長から

語っていただきました。

 

・・・本当に貴重な話、まだまだ聞いていたい

話でした。

その後、

「とあるとこに隠してらった」という
「北三陸駅」のセットを見学。

写真だと小さく見えるでしょうが、現在使用している三鉄の久慈駅の看板を

そっくりこちらに変えるわけですね。

 

 

こちらは、アキちゃんと種市先輩の
「その火を飛び越えて」のロケ地となった車両基地。

 

 

ここで集合写真!
中央の「潮騒のメモリーズ」
これだけが撮影用の本物だそうで
あとのはレプリカだそうですよ。

 

 

昼食後、駅前の「あまちゃんハウス」「まちなか水族館」へ
「まちなか水族館」にロケセットたくさんありました。
商店街では「あま絵」も発見!

 

そして貸切の震災学習列車に乗ります。
久慈駅では大漁旗がお見送り

 

 

 

「発車のベルをどなたかおひとり鳴らしてください」
とのことで
今回、ツイッターでこのツアーを見つけて
東京からわざわざ参加してくださった
吉田さんに鳴らしていただきました。

吉田さんは、この後、8/30の「あまちゃんサミット」にも参加していただき、
今では「岩手は第2のジモト」と言い切るコアな岩手ファンになっております。
その最初のきっかけがこの「復興応援バスツアー」というのは嬉しいですね。

 

震災学習列車のガイドは三鉄社員の二橋さん

「震災学習列車」の発案者だそうです。

 

 

車内では
海に向かって黙祷。

松林と防波堤で見えなかったはずの海が今は見えます。

 

 

三鉄の社員はほぼ沿岸の出身だそうで
ひとことひとことに重みがあります。

 

さて貸切車両は
あまちゃんでは袖が浜駅となっていた堀内駅で3分間停車
「アイドルになりたーい」とユイちゃんが叫んだ場所です。

 

そして、なんとこの貸切車両は
「あまちゃんのロケ」に使用された列車だそうです。

 

見よ!証明写真

 

「ここはアキちゃんが座ってた座席ですよ」といわれた
Fさんは3センチその場で飛んでました。
じぇじぇじぇ~!!

 

こちらは

夏ばっぱが大漁旗を振った海岸。

よもやこの5か月後にここで50人の夏ばっぱが大漁旗を振ることになるとは・・。

(あまちゃんサミット・バスツアー)

 

田野畑まであっとういう間の70分でした。

 

こうしてお客様とお天気に恵まれた復興応援バスツアー第3弾

 

 

橋上駅長の話もよかった
「その火を飛び越えて」のロケ地見れたのもよかった
震災学習列車の手作り感いっぱいの説明もよかった

でも1番感動したのは

三年たってもなお、
三鉄車両に手を振ってくれる沿線の人がいる
ということ。

 

これが普通であることが凄いことだと思います。

最高のおもてなし じゃないだろうか・・

三鉄の社員の方はもちろんのこと、地元の人たちのこういうバックアップがあってこその「第2のジモト」な訳ですね。

 

 

<追記>
バスツアーのよいところ、それは1日行動を共にして、参加者全員が仲良くなれるところだと思っております。

今回も、参加者の方からプレゼントをいただきました。

こちらは第1回目の復興応援バスツアーから参加してくださっている滝沢市のOさん

作成の「馬っこ」 

 

 そして、盛岡市から参加したMさん作成のステッカー。

ツアー参加者全員分、頂戴しました。ありがとうございます。

 

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2013.7.7開催・復興応援バスツアー第2弾~大船渡津波伝承館と三鉄南リアス線~

2012年2/22に開催した第1弾の「宝来館の女将が語る3.11」から1年半たって「復興応援バスツアー」第2弾を開催しました。

おかげさまで44名の方に参加していただき、ほぼ満員です。

震災から2年以上たち、私は募集のパンフレットに次の言葉を載せました。

「いつまでも悲しいだけの被災地じゃない」

復興へのたしかな歩みを実感するそんなツアーになるであろうと

思ったのです。

たしかに震災後に初めて乗車した三鉄は

復興の歩みを実感させるものでした。

が、2年たっても変わらない問題も多々ありました。

 

 

 

まずバスは一路、陸前高田の復元した「奇跡の1本松」へ

 

その「1本松」から見える光景がこちらです。

たくさんのクレーン車や盛り土

盛り土は古墳でも作るかのようにあちこちに見えます。

 

 

 

 

 

しかし、この果てしなく広がる大地を何十メートルかかさ上げして

そこに街ができるのかと思うと

「いったいいつ家が建てれるのだろうか?」と

内陸に住む私でさえ、気が遠くなります。

 

 

 

そんな複雑な思いのまま、バスは大船渡の津波伝承館へ。

今回のツアーの語り部は、津波伝承館の館長でもある

さいとう製菓の齊藤専務です。

 

ここ津波伝承館は

2011年3.11 あの日、何が起きたのかを検証し、未来へ提唱を鳴らす施設です。

膨大な映像と写真のなかからあの日をまず振り返ります。

東日本大震災

高台から社屋を撮った映像が次々流れます。

 

しかし、映像より何よりも齊藤専務がなにげなくお話ししたこの言葉が忘れられません。

「従業員の心の傷、トラウマだけはなんともならない」

 

 

実は昨年、第1弾で企画したときも宝来館のおかみが、

「みんな普通に働いてるように見えるでしょ。

でも震災前に1人でやってた仕事を今は2人でやってもらってるの。

あまりにもいろいろなことが在りすぎて、そうそう簡単に社会復帰できない」

とおっしゃっていました。

普通に見えるけれど、普通じゃない。

前回のツアーから1年半たっても

 「トラウマ」や「将来への不安」 という問題を抱えていました。 

 

齊藤専務には後程、被災した社屋を案内していただくことにして、昼食後

三鉄の「盛駅」へ。

吉浜駅まで復興した三鉄へ乗ります。

 

たまたま乗り合わせた現地の方が

当時のことを説明をしてくださいました。

こちらは本当のガイド(ユイちゃん?)

車中から見える穏やかな景色と

時折見える津波の跡を見ながら・・・・。

 

そして吉浜駅へ

線路のその先は、2014年の4月に開通です。

 

そしてバスは再び、さいとう製菓元の本社社屋へ

ここで再び、齊藤専務と待ち合わせ、説明をしていただきます。

津波は2階の天井まで到達しました。(青い標が到達点です)

破壊された1階

工程の都合上、齊藤専務には二度もおつきあいいただきました。

 

 

震災を経験した方の、生の声をきくこと

変わらぬ景色に「なぜ?」と思うこと、

それを体感して少しでも共有することが大事だと思って

この「復興応援バスツアー」を企画しています。

 

 

「復興にひと区切りついたね」と見届けるまで

このバスツアーを継続していきたいと思っていますので、

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

参加していただいた方々、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2012.2/22 復興応援バスツアー「宝来館の女将が語る3.11」報告

まずもって、このツアーの報告が3か月後になってしまったことをお詫びいたします。

 

47年間生きてきて、九死に一生を得た人のお話というのを聞いたのは今回が初めてでした。

帰ってきて、私のフェイスブックではいくつかの写真を掲載しましたが、

本当に女将の話が凄すぎて、私の乏しい人生経験では表現することができずにいました。

今もってその状況は同じですが、できるだけ忠実にこのツアー報告をしてみたいと思います。

 

 

 

【ツアーの企画にあたって】

 

バスツアー募集のパンフレットに書いた言葉です。

 

「伝えることも立派な支援です」

3.11からもうすぐ1年になろうとしています。

被災地のために何かしたい・・・でも何をしていいかわからない」

私を含めそんな方々のためのツアーを企画いたしました。

釜石市鵜住居地区にある宝来館。

震災後、建物が半壊しながらも地域住民を支え続けた宿です。

現地へ行って、あの場所に立ち、女将岩崎昭子さんの講演を聞いた時、湧き上がってくる感情・・・。

どうか周りの方々にお伝えください。

忘れないこと、誰かに伝えることも立派な支援です。

 

 

実は開催のきっかけはフェイスブックでした。

震災から半年が過ぎた頃、

関西に住む友人の「被災地のニュースがほとんどない」という投稿を見ました。

そして海外では

震災の報道は最初の1週間だけだったということも知り、衝撃を受けました。

 

それまでは、支援物資を運ぶわけでもない、

ガレキの撤去をするわけでもない、

そんな自分が何ができる?と思って悶々としてきましたが、

 

実は、私と同じように歯がゆい思いをしている岩手県人はたくさんいらっしゃるのではないか、

また被災地へ行きたくても遠くて行く手段のない方もたくさんいらっしゃるのではないか、

県民の一人として、被災地の今を自分の言葉で伝えたい、

同じ考えの方々のバスツアーを企画しよう!と決めたのは昨年の10月でした。

その思いを「伝えることも立派な支援です」という言葉に込めました。

 

 

 

 

【2012年2.22友引の平日開催・・・この意味はあとで知ることに 】

 

前日までの悪天候が嘘のように晴れた2/22

朝7時に滝沢市(旧:滝沢村)役場を出発し、盛岡駅西口経由、さらに東和インターで2人の方を乗せ、

総勢41名のバスツアーが始まりました。

 

 

 

途中、遠野の道の駅で休憩し、釜石市内へ入ったのは10時。

 

実は私に「宝来館の女将の話が素晴らしい。」と最初に教えてくださったのは、

新安比温泉静流閣の橋本英子女将です。

英子女将は釜石平田の出身。忙しい中、今回のツアーに参加してくださいました。

釜石市内に入ってからは、英子女将がガイドになり、

震災直後に入った釜石について語っていただきました。

 

 

「仮設住宅がこの奥にありますよ・・・」といわれてもピンとはこないぐらい普通の生活に見える釜石市郊外を抜け、

釜石駅を過ぎて中心部へ来たとたん、風景が一変します。

 

 

外側が残っているだけの鉄筋の建物、

跡形もない のんべい横丁、

「解体OK」の印をつけた家、

空地ほどの土地に所狭しと建つ仮設住宅・・。

 

国道45号線沿いの両石地区に入ると、もっともっと状況が深刻になります。

高台にあって海は見えないのに、街がすっぽりとないのです。

ところどころ土台だけが残っている様子・・・

まるでこれから造成するニュータウンのようにも見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ガレキです。

岩手県にあるガレキ475万5千トンのうちの一部です。

このように一カ所に山になって積まれています。

 

他県で一部の方に受け入れを拒否されているのはこうしたガレキなんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「釜石の奇跡」と呼ばれた釜石東中学校と鵜住居小学校を過ぎ、目的地宝来館が見えてきました。

 

 

【宝来館・・・慰霊の鐘と目の前の海と 】

 

津波はこの建物の2階まできたそうです。

ここへ来る道路が一部寸断されたため、一時期は120人もの住民の避難所になった宝来館。

その後、閉館を余儀なくされましたが、2012年の1/5に再オープンしました。

 

工事関係者、有識者、ボランティアを除く一般の観光客を受け入れたのは、

実はこの日の㈱のびあのツアーが震災後初めてなんだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震災後に建立された慰霊の鐘です。

この日は、本当に天気がよくて穏やかな春の海でした。

こんなに優しい海がどうして・・・という思いが込み上げてきます。

 

 

 

 

後ほど、テレビやユーチューブで女将が津波に一瞬にしてさらわれる映像を何度もみましたが、

その映像を撮影した場所が宝来館のすぐ裏手にある山です。

 

一度は館内にいた従業員とともに裏手の山に避難した女将ですが、

近所の方々が宝来館を目指して避難してくる様子を見て、

裏山へ誘導するために駐車場へと下りました。

 

津波は目の前の海ではなく、写真でいうと左側から、鵜住居川を逆流してきたそうです。

 

「間に合うと思ったの。

4軒となりに泊めている宝来館のバスがふわっと浮くのが見えた。

と、次の瞬間、流されました」

と講演のなかで女将は「その瞬間」を語りました。

 

 

 

【岩崎昭子女将・・・笑顔をたやさないその人は観音様みたいな方でした】

<東日本大震災のデーター   2012年5/9時点>
全国での死亡者数 15858人     行方不明者 3021人
岩手県の死亡者数  4671人

釜石市の死亡者数   888人

 

11時~「女将の語る3.11」がスタートしました

 

女将の話は、なぜ今日のツアーが2/22になったかの説明からでした。

「今ね、宝来館では毎日、一周忌の法要をしているの。

何も予定ないのは友引の日だけなの。

昨日はね、8人亡くした方の一周忌。その前は一族38人の一周忌。

普通は、「あの人、亡くなったずな」っていうでしょ?でもこの辺では逆。

「あの人、生きでらったな」っていうの。

釜石で亡くなった人、888人中、約600人が両石と鵜住居の人たちなの。

でもね隣の大槌はもっと大変。1300人もの方が亡くなっているの」

 

それから女将の話は亡くなった従業員の方の話になりました。

宝来館でも、板長はじめ、3人の従業員が亡くなったそうです。

ひとりは非番で休みだった方。宝来館が大好きなスタッフの方で、たまたま体調が悪くて家にいたそうです。

そして彼女の遺体は

「避難所としての宝来館が今日で解散するという3/26、遺体があがったの。

その子は宝来館が大好きだったから、ここ解散する前に見つけてほしかったんだね」

 

そして、板長ともう一人の従業員の方は

一度は裏山へ避難したあと、「家族が心配」で

あの50人以上が亡くなった防災センターへ向かって亡くなったそうです。

 

 

 

それから女将は、遺体安置所で経験した不思議な体験について語りました。

一か月もたつと、遺体というのは黒くただの木のような色になるそうで、顔も何も見分けがつかないのだそうです。

でも、ある奥さんがそのご遺体の前に来た時、とっさに「お父さん!」と。

そのとたん、さっきまで黒かった遺体がすっと人のお顔に戻った時のこと。

 

また、16才で亡くなった高校生は、本人のものではないジャージを着せられていたそうですが、それでも「その子のお母さんは自分の子だってわかった」という話。

 

お母さんを亡くした5才の子は母の死をやがて静かに受け入れ、

亡くなったお母さんのことを「津波よりも強い人を知ってるよ。それはママだよ」と話したこと。

 

そして、「なぜもう一度、宝来館を同じ場所に再建したのか」について話してくれました。

 

 

【宝来館のなかにある海と一緒に生きてみよう。逃げないでここにいる。それが私の使命です】

 

「使命」という言葉のほかに、

「三陸で生きる覚悟」

「故郷で生きるDNA」 という言葉で話していました。

 

再建しようと決意した理由はいくつかあるそうですが、ひとつは「釜石の奇跡と呼ばれた子供たちのこと」だそうで

「あの子たちはきっと将来、日本のため、世界のために役に立つ人間になる。その子たちが故郷へ帰りたいと思ったときのために、私はここにいる」

 

そして、これは一瞬の判断と偶然が生死を分けた経験をした方の言葉だと思いますが

「自分たちはたまたま生きている。だけど死んだ人だって生きてるの。私たちと一緒に魂が生きてるの」

再オープンしたときに作ったという宝来館のパンフレットを頂いてきましたが

それには「みんなでやっぺし!」

「宝来館女将の楽しい復興構想=どんぐりウミネコ村」 というタイトルが記載されています。

 

しかし、講演の最後にはこんな現実も話してくださいました。

「今、私は授業員に震災前には1人でやっていた仕事を必ず2人でやらせています。

一度、空洞になった頭と体はバラバラで、普通のことをするのに訓練が必要なんです

そして「あれだけの経験をした鵜住居の人たちは、ある意味では独立国。内陸の人たちと同じ感覚に戻ることはない」とも。

 

 

講演終了後は

「被災後に漁師がはじめて採ったワカメなのよ。これを今日みなさんにお出しできることが本当に嬉しい」

というワカメのほか、心づくしのお膳を頂きました。

お給仕をしてくださった従業員の方々は、ごくごく普通に接客しているように見えましたが

女将いわく「訓練が必要で」

震災後、初めての観光ツアー客だった私たちを精一杯もてなしてくださったのだと思います。

 

みのもんたさんに命名されたという「宝来焼き」を頂き、

 

その後は女将と記念撮影をしながら、

 

宝来館を後にします。

参加者ひとりひとりと握手しながら見送りです。

 

こちらは宝来館の昭子女将と新安比温泉静流閣の英子女将。

互いに釜石出身で、女将という同じ立場だからこそ、手を握るだけでわかりあえるものがあります。

 

 

 

そして今回のツアー参加者で最年長の82才のおばあちゃんと女将です。

おばあちゃんはひとこと、女将の手を握って 「念願が叶いました」

 

 

今回のツアーに参加された方々は本当にやさしい方々ばかりで

こちらは重茂さんという男性が作ってきてくれた手づくりの「復興祈願」

現在は宝来館のフロントに飾ってあります。

(重茂さんは私にも㈱のびあと書いた龍を作ってくださいました。会社内に飾ってお守りにしています)

 

宝来館にお別れし

バスは途中、大槌町内を通り、山田へ。そのまま45号線を北上しました。

 

火災もあった大槌町は、かろうじて役場跡がわかるだけで、どこがどうだったのかわからなくなっていましたが、

山田町の海は養殖が復活しているように見えました。

この穏やかな海だけを見ていると何も変わっていないようなのに、振り返るとそこにあったはずの街はない。

仮設の病院、仮設の店舗、仮設の庁舎・・・・復興はまだまだこれからです。

 

総合広告社の菅野社長から参加者全員がいただいたDVD 「岩手は半歩歩きだす」を上映しながら、宮古経由で盛岡へ。

 

106号線から見た夕陽です。

 

 

宝来館のおかみは

「 震災後、残ったものは芸術・文化・人とのつながり」と話していました。

 

盛岡から参加したご夫婦は

「やはり内陸部の我々が伝えていかないとね。のびあさん、また第2弾やってね」と声をかけていただきました。

82才の最年長のおばあちゃんは、昭子女将と同じ言葉で私に深々と頭を下げてくださいました。

「念願が叶いました」

 

この復興応援バスツアーを企画して本当によかったと思います。

 

こうして文章にするのに3か月もかかってしまいましたが、

昭子女将の講演を聞いて気づいたこと・・・。

それは、女将の「釜石の奇跡の子供たちのために」という言葉。

 

それを聞いて、「そうか、復興10年の主役は私たち世代ではなく、今の小学生、中学生の子供たちなんだ」と初めて気づきました。

そうだとしたら、「復興10年を担う子供たち」にも伝えいかなくてはと思いました。

県外の修学旅行生で校長先生の英断であえて宮古市田老地区を訪問した学校がありましたが、

内陸の子供たちにも三陸の今と今後を見せてあげたいと思います。

 

どんな形になるか、わかりませんが、第2弾復興応援バスツアーも必ず企画します。

41名の参加者のみなさま、本当にありがとうございました。

 

 

そして、新安比温泉の橋本英子女将

この復興応援バスツアーを共催してくださった旅行社、岩手県教互センターの佐々木部長

DVD協賛していただいた他にツアー告知にご協力頂いた総合広告社さま

そして人生観を変えるようなすばらしい講演をしてくださった宝来館の岩崎昭子女将とスタッフのみなさま

ありがとうございました。

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